午後の陽だまり

午後の陽だまり
すりガラスの窓に映ったキラキラ。

社会人になるとなかなか平日のお昼に部屋にいることは少なくなります。
ふと休みをとったりすると、自分の家のなにげないところに美しさを感じてしまいます。

みんなそれぞれ理由があって家にいると思いますが、なんでもないところに
なんでもなく転がっている美しさ(幸せ?)に気付くのって大切なんだって
思ってみました。

ふと、小学校上がる前のまだ小さいころに実家のえんがわで日向ぼっこした
ことを思い出した。確か少し肌寒さを感じるこんな季節だったように思う。


すでに思い出を受ける番から与える番に変わったわけだけど、感じる心を失ったらよい思い出を感じさせることもできないですね。
気付いたらもう硬直してしまっていた自分の心。
そういうのに気付くのには、ちょっとした小休止も必要なのかもしれません。

自分も振り返ってみると最低な人間だなと思った。
人と変わった価値観をもって、人の世の価値観に自分の置き場所をどうやって決めるべきなんだろうか。と、そういうことを考えてます。
自分を悪者にして人の世に尽くすこと。そうしてボロボロになった自分の
我と向かい合って、自分の存在について問い返してみる。

不完全な身体を与えられ、辛酸をなめ、人と違う目標を手に入れた。
そして、善も分かった。悪も分かった。
しかし、それだけでは足りない気がする。
人の世は人の世。とくにもう抗う必要も無い。抗って見えるものは
もう十分見えた気がする。
それを超えるには。無為の境地がおぼろけながら見えてきた気がする。

驕る曹操、左慈に招かれるが曹操これに応えず。
思うと、これとはまったく逆の生き方になってる。
左慈がなぜ曹操をスカウトしようとしたか長年謎だったが、少し分かってきた気がする。
左慈はたぶん曹操のことがうらやましかったんだと思う。

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