ドコモダケとティッシュ箱と東ティモール

ドコモダケとティッシュ箱と東ティモール
ドコモダケ。なぜかこれがかぶりつき一番人気…

とあるティッシュ製造会社が東ティモールという南海の貧しい国に援助しているらしい。
少々、感じ入るところがあったので書いてみた。
長いが、背景をまず説明。

インドネシアのオーストラリアに近いところにティモール島というのがある。
さかのぼること16世紀に東はポルトガル、西はオランダの植民地とされた。
それまでの植民地支配は、一般的にインフラに投資はほとんどしない。
ヨーロッパ列強は資源の収奪のみを目的としてこの地でコーヒー豆を栽培させていた。
(21世紀の現在に至るまで東ティモールという国はコーヒー栽培しか主な産業はない。)
だが、オランダに比べポルトガルはキリスト教布教だけには熱心であり、
この島は東と西で宗教的に分断された。(東はイスラム世界)

後の太平洋戦争では、日本は本島を占拠し、オーストラリアをはじめ連合国と戦った。
日本の敗戦のあと、アジア各国は立ち上がり、ヨーロッパ列強の植民地支配から次々と脱した。
ティモール島も例外ではなかったが、西ティモールはインドネシアとして独立を果たしたものの、
東ティモールはポルトガルを宗主国として1975年まで独立が遅れた。
宗教的な分断が背景にあったのだと思う。

翌年、インドネシアによって強制的に併合され、その後虐殺など血なまぐさい内戦が始まった。
ろくな資源もない東ティモールを世界は無視し続けたが、欧米はいちおうのキリスト教世界の
一員である東ティモールの独立勢力に武器を供与し続けた。
(世界中で今も続く、イスラム世界とキリスト教を代表する欧米社会の代理戦争の一つ。)
その後、世界の石油と天然ガスを支配する石油メジャーが東ティモールの近海に眠る
石油や天然ガスなどの莫大な海底資源に目をつけた。

隣国のオーストラリアは、石油メジャーと結託しつつ、東ティモールを無視し、
占領国のインドネシアとこの海底資源の権益について協議することにした。
そして、インドネシアが東ティモールの主権を握ることを認めることを条件に近海の海底資源
の権益を手に入れることに成功した。

98年インドネシアのスハルト政権がたおれ弱体化すると、国連はオーストラリアを主導に
武力介入した(黒幕は米国、後に小泉首相などときの自民党政権もこれに加担。)。
インドネシアは撤退したが、インフラの75%を破壊した。
その後、住民投票を経て欧米諸国の監視のもと”民主的に”インドネシアからの再独立を果たした。
東ティモールは海底資源の権益の一部を回復したが、その8割方はオーストラリアが握っている。
また、オーストラリアは再独立の際の貢献を理由に強気の主張を崩していない。
(インドネシアとの安全保障面もある。
ちなみに、日本はODAとして再独立後に100億円もの供与を行っている。)
現在、東ティモールはオーストラリアからパイプラインで石油の供給を受けている。
その依存の根は深い。

と、背景はここまで。さすがに長かったかな。
最初にこのティッシュ箱を見て違和感を感じた。東ティモールという
ほんとうに”複雑な”国をなぜ選んだのかということ。
そして、この支援事業の裏に何があるかということを考えた。

まずもって、イスラム世界のいわば裏切り者の東ティモールを支援して、
それまで相当程度に伐採が進んだインドネシアやマレーシアがどう思うのかということだ。
この観点からはこの支援事業はまったく意味が分からない。

そのため、もうインドネシアなどとはもうすでに相当程度に関係が悪化してしまっていると仮定してみた。
インドネシアやマレーシア近辺は良質の木材が取れるが、同時に違法伐採も増えていると聞く。
最初は、まだ国家の体制が整っていない東ティモールをたらしこんで、規制の厳しくなった
インドネシアから伐採の現場を東ティモールに移す腹なのかなと思った。

でも、調べてみると、すでに東ティモールは内乱の混乱で燃料にするため伐採が進んだため、
禿山が目立ち、海際のマングローブ林も伐採が進んでいるとのことであった。
(熱帯のため土壌がやせており、植生の回復は難しい。)

ならば、ユニセフ主導の単純な人道支援なんだろう。
(最初は、植林活動を企図していたが、外務省の予算が付かなかったか、進捗が遅れため、
ユニセフに逆提案された案件にこれは良いと乗っかったとかそういうところだろう。)
だが、物事はそう単純じゃない。
こういう人のためになる事業は本来、その国が実施するためのものだ。
(海底資源の権益を全て回復することができれば、それも可能になるかもしれない。)

もとをたどれば、植民地を収奪の場としてのみ考え、宗教的に分断したヨーロッパ列強に
その責任の一端があることは明白だ。
16世紀から21世紀の今でさえ、この国の主要産業はコーヒー豆の栽培しかないのだ。
(日本が宗主国時代に大規模にインフラを整備した日本の隣国とは違って。)

困っているものを助けることは良いことだと思う。
しかし、資源を有する国を意図的に最貧国におき、いつまでも”援助の対象”として
留め置くのは先進国のエゴだと思う。
(すでに援助という行為もエゴの一環としてシステム化されるていると私は思う。)

確かにこのエゴのため、先進国の一員である自分達は豊かな生活をしているともいえる。
武力や外交など持つものの特権を行使して、自分の国が豊かになるよう計らうのは
何も悪いこととはいえないのかもしれない。

ただし、これらの行為が”罪”だということを知っておかねばならない。
そして、この援助する者もこの”罪”に加担していることを承知しなければならない。
人間が生きることは全てある程度の罪を産む。いや、全ての行為は罪だともいえるかもしれない。
重要なのは、この罪を自覚することだと思う。
そして、望めるなら、この全ての罪から離れたところに自らの理想を置きたいものである。

この複雑な世の中にあって、手段はあまり重要ではない。
重要なことは因果を自覚し、これから自由になること。そうではないか?
この認識を持てば、援助するものも破壊するものも等価に空しくあり、
同じ役者業として人生を全うしていることに変わりはなく、
等価にいとおしむことができ、また、等価にその存在を無視できる。
そうあって、人は始めて本当の自由を手に入れることができる。
何度も言うが、手段はあまり重要ではない。

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