殿堂入りのバラ2

殿堂入りのバラ2
殿堂入りのバラ略してでんばら2枚目。

今考えてること。





今読んでる本がレベルが高くてびっくり。
最近、オカルト系の本を意図的に読んでなかったんだけど
知らないうちに周りのレベルが上がっていたのか。

6年くらい前。とても危機的な状況にあって大変だったときがあった。
そのときは、今のままではダメだとおもって、
思い切ってとっても大胆なことをした。

周りはどう思ってただろう。そのときはそれすら考え無かった。
ただ親はただおまえの思うふうにやればいいといってくれた。

環境をがらりと変えて、がむしゃらに頑張った。起きてるときは始終頑張った。
そうすると不思議。全てのことにとても感謝できた。
生かせてもらってること。頑張らせてもらってること。
こんな自分でも見捨てないでいてくれること・・・
ただ生きていることがとても素晴らしいことに思えた。

夜寝ようと思って床につくと、それこそ何にも無いのに感謝で涙があふれてくる。
そういうことが何週間か続いた。眠れない。急に変な光景が見えて
音楽が聞こえた。聞いたことの無いような不思議な曲と幻想的な映像が頭に流れた。

思えば兆候はあった。
最初にそういうことがあったのは、大学に入ってすぐのころ。
このころもがらっと環境が変わったときだった。
ふと、頭の中にオーケストラが響いた。それこそいろんな楽器がそれぞれに
いろいろな音色を奏でた。それから、ときどき額がジンジンしたり、
頭にワッカをかぶせたみたい圧力感を感じた。
急に図書館の入り口にある磁気感知器が誤作動したこともたびたびあった。
頭の中がつっかえた感じがし、頭の中によく稲妻みたいな光が走った。

そしてとても危機的な状況にありながら、深い感謝に包まれたそのとき、
たぶん第三の目というものが開いたんだと思う。

はっきりいってそのときはとても頑張らなければいけない状況だったので、
夜眠れないことやいろいろなものが見えることがとても不快だった。
なるべく考えないように見えないようにして寝ることだけを考えた。
そして、環境に慣れ、目的を達し、頑張らなくていい状況になったとき、
ぱったり何もみえなくなった。

この経験の間に確かに自分は変わったのだと思う。
でも一度、自分の身の安全が確保された時点で物事に対する無条件の感謝の念が
薄れたように思う。

上述の本を読んでみて、深い感謝の念はオーバーソウルへのチャネルを開く
と書いてあった。まさにその通りだと思う。

また、同時に深い感謝の念を持ち続けることは、神の恩寵を認識するのと同時に
その恩寵に対して自分がそれ相応のお返しをしなければならないという
思いを人間が捨てきれないことから、とても困難なことだと書いてあった。

確かに自分はそのときはそれなりの努力している最中だった。
奇跡のような神の恩寵を感じること
(そのときは単に奇跡的な体験はもちろん、どのような何気ないことにも
神の奇跡のように感じ、深く感謝することができた。)
に対して、自分がそれなりのものをしているという無自覚で人間的な
自負があったのかもしれない。このような思いがあり、
努力が必要なくなったとき、それなりのお返しができなくなった自分に
自分は絶望をしたのかもしれない。つりあわないと。神の恩寵に似合わないと。
そう思ったのかもしれない。

ただ、自分の人生の初めから一貫して、自分を見守り忠告してくれる
何かは自分から離れることは無かった。
(最初はその何かの忠告を無視し、いわく”理性的に”行動していた
ため散々な人生だった。)
この何かは自分からひと時も離れることなく直感を与え、
そのときは不思議な選択に思えても必ず良い結果を自分にもたらしてくれた。

ただこの何かによって奇跡のような体験をしつつ、まさにそれが当たり前と
感じるようになった自分がここにいる。自分の感謝の気持ちはどこにいったのだろう?
感謝の気持ちを得るためにはどうすればよいのだろう?
また、苦境に陥らなければならないのか?その苦境を恐れない自分がいるが、
それは自分の弱さなのだろうか?苦境から逃げるための?
また、苦境に陥らなければならないと考える自分は人間的すぎるのだろうか?
キリストがゴルゴダの丘を歩んだことを思うような、自分のヒロイズムに酔う様はとても浅ましい。

自分の直感は告げる。自分のありのままを愛せと。
何もできない無能な自分をそのまま愛すことができるのか?
神霊的な技を身につけようか思い悩むこの今にあって。

聖賢は術におぼれることを戒めた。
術は危険性をはらみ、堕ちた呪術師は、何も知らないことよりも罪深い。

しかし、なぜ運命は私にこのような本を与えたのか。
これは誘惑なのだろうか。はたまた成長するために必要な基本的な技術なのだろうか。
言い伝えには、聖賢は術を戒めつつ、奇跡の御技を行ったではないか。

直感は言う。
知りつつも、行うな。行いつつも知ろうとするな。
否、知る必要はなくすでに満ち足りている自分を知れといったところか。

ここが分水嶺であり、ここがルビコン川の岸辺なのだ。
激流に流され藻屑と消えるも、がけ下に転落する危険性をも
直感は伝える。
ただし、もう戻れはしないのだ。
戻ることはすなわち緩やかな死滅を意味しているのだから。
人生の行程には、進歩か退歩しか存在しない。

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