久しぶりにシリアスに

今日の新聞で越智先生という新潟の教授の話が載っていた。
原発問題に関する各論だ。
考えることがあったので、少し長めに考えてみる。

「想定外」「原子力ムラ」という二つの用語について

自分も気になっていたワードだ。なんというか考えさせられる。
これから先、おそらく60年は考えさせられるワードだと思う。
今の、震災、原発問題は、レベル的に「戦後」これと同じレベルのものだと思っている。
引用は、本来なら、全文を載せるべきだが、紙媒体(新聞)なので面倒。よって要点のみ。

「想定外」について
今回の地震で主に、想定外の震度、想定外の高さの津波などの言い方がされていた。
ここで先生は、問題の本質は原発の事故そのものが想定外であったことを言っていた。
教授連中は分かっていたはずである。だが、世界の原子力開発、政府、官僚、
原発メーカー、電力会社と一体となって行動するうちに、科学者としてあるまじき
愚行、つまり、原発事故に対する思考停止、聖域化を行ってしまったと書いていた。

「原子力ムラ」について
最近、事故調による報告書なるものが報道された。
いわゆる原子力ムラに対して批判したものと捉われている。
ここで、先生が問題にしていたのは、この報告書に個人名が
誰一人出ていないということだ。個人が特定できるものは管首相のみだという。
原発誘致の歴代政治家、官僚など誰一人名前が無いという。

以下は、私の考えだ。
責任とはなんだろうか。社会の組織では役職に伴って責任を負うとされている。
責任とは例えば、クビになったり、あるいは刑事罰に問われるということだ。
(昔は腹切りなどがあった。たかがこれくらいということだ。)
この本質は、個人に責任を負わせ、いわば見せしめにすることで、次の人間に対して、
抑止力を発揮させようということである。

責任を問われないということは、今後に生かされないということだ。
原発事故の本質。それは、科学万能主義に裏打ちされて、ある事実が正しいとされれば、
それがたとえそのとき実際には不確実だとしても、その時点では正しいことであり、
その決定に基づいて官僚機構が施策を作り、その施策で後日、被害が起きようと、
官僚機構は誰一人として責任を負わないということだ。
そして、科学に基づいて決定を下した科学者連中も、そのときのデータでは
正しいとされた判断だったとでも言えば(つまりこれが想定外ということである!)
責任は問われないのだ。

このようにして、誰一人責任を負わないことが実際にまかり通ることになる。

だが、この決定機構に対して前提とされることがある。
それは、科学に対して、政治が関与しないことである。
これを違った者には、現状でも、罪に問うことはできるのである。

次に神の世界から考えるとどうか考えたい。
責任とは。神の世界にも責任はある。
なぜなら、現実の世界の概念はその上部の世界にも似たりよったりで
存在するからだ。そして責任という概念が存在しない、あるいは看破されている世界もある。
責任という概念の本質は、自らの行為に対してその結果を受領するということである。
つまり、カルマということだ。
仏ゴーダマ・シッダルタは、仏の世界にもカルマは存在すると言った。
それだけ普遍的な概念ということだろう。しかし、この意味には深慮を要する。
カルマとはその原因と結果を観察する観察者がいる場合にのみ意味を持つ。
永遠に流転する世界事象そのものになり切った、そのものは、自らを観察することはない。
彼にとって、カルマとは何物もを意味しない。彼を観察するものがいたとすれば、
その観察者にとってカルマは存在するだろうが、彼にはその被観察はまったくもって関係がないのである。
量子力学的検知からいえば、観察者が観察することによって、彼は変わることもあるだろう。
そのことによって、愉悦を感じるとすれば、浅はかなことではないか。
なぜならば、変わった彼は流れに身を置いている限り、何物にも変わってはいないのである。
彼は永遠の一者である。
これが、仏道にいう解脱者が神に優越するという理由である。

しかし、忘れてはならないことがある。これを忘れると、
ニヒリズムに囚われる。現実は現に存在する。彼がおり、私がいるからである。
彼岸があり此岸があるということだ。
私が消えないかぎり、彼がおり、彼が消えないかぎり、私は消えない。
どちらとも存在するならば、その現実を考えなければならない。
神の階段はあり、神と諸生は存在する。

二つの視点がある。この折り合いが私の今の問題だ。
階段をいくら登っても登りつくせず、降りても降りつくせず、
いくら進んでも終わりは無く、いくら後退しても始まりは無い。
この世界を脱するための仏道に、現に存在する矛盾に満ちた世界。
これを解決する世界の仕組みに、四劫がある。
しかし、これだけでは説明が尽くされてはいないのだ。
劫の後に残るものがヒントであるように思うが、本当にそれだけなのだろうか。
その先を私は知りたいと思っている。

人間万事塞翁が馬という。
「想定外」の矛盾の行き着く先であるだろう。
「原子力ムラ」はつまり、観察を排し、成りきる我ということだ。
世間の物事で、問題になっていることには、突き詰めると、
全てこれに行き着く。
仏ゴーダマ・シッダルタは人生は苦しみであると語ったという。
この苦しみに満ちた汚濁した現実には、かくも秘密がある。
それは、上の世界からみてもあるいは秘密なのであろう。
全ては滅ぼされる運命であるというのに、知ったふりをする。
儚いではないか。

今日は、子どもと水族館に行ってきた。

1489
画像は、なんとなく。観察されるものと観察するもの。
果たして観察しているのはどちらなんだろう?と思わせる写真。

久しぶりに、九州ラーメンを食べてきた。
ニンニクたっぷり。一年に二回くらいは食べたい味。

夢はみなかった。今日はどうかな。やる気の問題かな。

最後に、終わった話だと捉えていると思われるとイヤなので。

3号機から煙smoke rises10:29&12:47 2012-03-29(TBS/JNN/福島第一原発ライブカメラ)

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=tcXRM8x7PhY


何も終わっていないと思う。
冷温停止?ヘラクレイトスではないが、
万物は流転し、いまだ燃え盛っている炎なのです。
だから、見えているものも変る。
この瞬間にも。


追記
会津きい子 という人物がいる。
気になったので、これからも意にとめておきたい。

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