今日の夢 ガレキ 絆 老子

今日の夢

体育館に学生時代の知り合いがいた。
きれいな女性だったが、今も綺麗だった。
後ろに何やら対談講演のポスターが載っていた。有名人みたいだ。

とりあえず、廊下に出てみて、トイレなどにいった。
そのあと、なにごともなくおきてしまった。

今日のニュース

震災ガレキの受け入れを新潟県内の5市が受け入れを表明している。
新潟県知事は積極的でなかったことから、動向が騒がれていた。
今回、知事は、県を介さない受け入れについて、「とめようが無い」
と答え、事実上、容認するとの報道であった。
知事は、一方、ガレキは被災地だけで処理できるという認識を語った。
阪神大震災のときは2千万トンのガレキに対して、今回は2300万トンという。
あまり変わらないのに、広域処理するを意味がないとの考えだという。
「がれきは仮置き場に山積みになっているが、片付いている。復興の妨げになっていない。」
と語ったという。
また、知事は、検討すべき課題として、次の3点を挙げた。
@焼却時や埋め立て時に発生する排水に混じる放射性物質をどうするか。
A基準値を超える灰が出た場合にはどうするか。
Bセシウム以外の放射性物質は検査しなくてよいのか。

受け入れを表明している県内5市は、引き続き知事に理解を求め続ける意向のようだ。


知事の見識は素晴らしい。トップとして自分でものを考えられる人物だと思う。
本当に県民のことを考えて、意見を持っていることが分かる。
具体的な検討の課題を挙げているのと同時に、議論が先鋭化する前に、
国の8000ベクレルの基準に疑問を投げかけ、100ベクレルを提唱し、けん制した。
5市も、この100ベクレルにのっかって受け入れを表明した。

一見、受け入れを容認しない知事の行動は、昨今の偽善に満ちた「絆」なんたら
に反しているようにみえるが、震災当時、他県に先駆けて南相馬市と電話会談し、
「被災民全てを受け入れる用意がある」と応えたのは知事本人だ。

受け入れを表明した5市はどうか。
すべて、平成の合併で太った市だ。ガレキの灰の最終処分場は、吸収合併した
元町村地帯にするつもりだ。また、知事が挙げたような具体的な検討もせずに
引く事のできない受け入れを、住民の同意なしで勝手に表明したことにも大いに問題がある。
全国市長会の会長である長岡市長を始め、ポーズとして受け入れを表明せざるをえなかった
事情はあるとしても、それは県民にはまったくをもって関係がないことである。

そして、何よりも許せないのは、知事は、市が勝手にガレキを受け入れるのは
構わないと言っているのに、受け入れ量の配分など県が担うべきだと強弁し、
知事のお墨付きを得るまではと、引き続き知事に再考を迫っているところだ。

住民の安全を真に考えなければならないのは、その住民がいる
自治体だろう。それができないで、責任をとらせるつもりで、知事を巻き込むのは
まったくのお門違いだ。私は、今済んでいる場所近くで灰の処分場ができれば、
有無を言わさず引っ越すだろう。
吸収合併された町村は、今後、灰の受け入れを迫られるだろう。
合併時の立場の問題から、反対はし辛いだろうし、偽善的な「絆」なんたらの
影響で、住民は難しい判断を迫られるだろう。
これでは、関東の都市住民の電力需要のため、危険な原発を、福島や新潟に
押し付けた、昔の国と自治体の関係となんらかわりが無い。
また、悲劇の連鎖が生まれるだろう。

マスコミは、関東の都市住民をはじめ、中央よりの意見の発表しかしない。
その圧倒的な情報発信力で、すべてを東電の責任にすり替え、ガレキの問題を全国に回すことで、
責任を希薄化させようとしている。「絆」という偽善の名の下に。

ここであえていいたい。
放射能の不拡散という意味では間違っているだろうが、
まっさきに、受け入れを表明すべきなのは、関東の都市住民ではないか。
「絆」うんぬんの偽善はまったくもって信用していないが、その理論からすればだ。
それが、原発の事故の危険性をおしつけた責任の取り方というものではないか。
(過去に交付金を既に与えているという理屈は通らない。それは、事故前の負担として十分だからだ。
そして、事故後の負担としてはとても足りるものではない。)

ガレキの処理量は、当然ながら平時の人口数に比例する。
関東都市圏3500万人の人口数がもつ、ガレキ処理能力は、
被災3県の人口600万人から較べると、較べるべくもなく圧倒的だ。
被災県からのアクセスを考えても適任だと思う。

同じく関東都市住民から原発を押し付けられた新潟県の住民として、
すでに5市がガレキを受け入れを表明したというのは、心情的には
容認できる。
しかし、最初に、その責任を担うべきものは、応分の負担をしているのか。
はなはだ疑問である。

地方はもっと強くモノをいわなければならない。
いまは新潟県でさえ、新潟県知事の孤軍奮闘の状態だ。
自らの頭で考えることのできるこの方がこの県のトップで本当に良かったと思う。
反対にいうと、トップにはこれだけのことを本来、期待できるということだ。

この国の首相のふがいなさを言っているのではない。
この国の全責任を一個人に押し付けるのは、あまりに大きすぎる責任だからだ。
(一個人のもてる能力として無理があるということだ。無理に権力を発揮させると、
かつてみたナチ国家の暴走をみることになる。)
大きすぎる責任と、それに基づく権利、利権は、分けなければならない。
今は、国の首相は、全容が理解できず、その下にいるものは、まったく
責任を問われずに、言いたい放題、やりたい放題であった。
(その証拠に、この原発の事故の責任追及も首相以外にはされる気配すらないではないか。)

いずれ、この世界は、昔のような世界に戻るだろう。
老子の理想とした、小国が分立し、実際的な政治運営をし、
その上にいる一般諸国民のあずかり知らないような天子様が治める国。
これが、私がかつて見たヴィジョンだからだ。

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