深層と表層 無と有 私と言う行為 意味 存在の所以

最近、夢日記をさぼりがち。
どうも覚える気がないらしい。
貴重な夢をみているがおぼえていないのか。
大した夢じゃないので覚える気がなくて覚えていないのか。

どちらなのか。
記憶が無いので、どちらともいえない。
覚えるという気がなければ、貴重な夢も大した夢ではない夢も
この世界の表層に現れることは無いのだ。

深層では、どちらであるか分かっており、表層が分かる必要が無い、
と考えていれば、この表層の自我である私は知ることができない。

いわば、深層しだいなのか。いや、違うだろう。
夢日記をつけることで、深層にアクセスし、表層が
深層を知ることができる道が残されている。
表層のこの浅はかな意識は、その決意をもって、
事を為すことができる。

ただ、深層の自分がその表層な浅はかな努力を無駄なことと
あざ笑っておればどうだろう。深層に表層がアクセスするとき、
無駄なことと繰り返しそう伝える。深層は、表層よりも
深い知識を持っており、深層がそういうならと、表層は
説得に応じてしまうのかもしれない。
そして、その説得された行為すらも、覚えておく必要がないこと
だと、深層がいえば、表層は覚えることなく、
ただ、やる気を失ったという外形だけが残されるだろう。

ただどうであろう?
深層は本当に深層が言うほどに万能なのだろうか?
ことを知っているというが、万能なのではなければ、
その知識に意味はあるのか?
深層の深層が存在し、そのまた深層が存在し、
言っていることが二転三転と違えば、いったい誰を信用すればいいのだろう?

私達はそのときどうすればよいのだろうか?
僕は、おとなしく表層に従うべきだと思う。
ただ従うのではない。
大いなる決意を持って、ことにあたることだ。
深層がどれだけ嘲けようが気にする必要は無い。
決意と言う行為が、奇跡をもたらす。わたしはそう思う。

現実にあるべきでないことが、表層の決意から起こる。
たとえ、そのものが深層に属することであろうと。
深層にとっては、彼が知ったことはとてもちっぽけなことなのかもしれない。
表層が知るべきではないことは、表層が知る意味がないということでもある。
利も無い。表層の原理から言えば、無駄な行為なのかもしれない。

ただ、その知ったと言う行為は、その繰り返される全存在に、大いなる
衝撃を与える。探求である。光である。風である。優しさである。
高揚である。恥辱である。せつなさである。未練である。

それは栄光ではないだろうか。存在にだけ許される行為ではないだろうか。
これが存在の喜びである。かけがえのないものである。
存在が存在として存在する理由であり、行為である。そう私は確信する。
その確信は私が私の意志で見つけたものであるからである。

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