今日の夢 原発再稼動

今日の夢

@
高専のときの学友が出てきた。
なぜかプログラミングに熟達しており、なにか
プログラムを作ってもらったような記憶。

Aこちらは、就職当時の同僚。自分よりも年下だった。
少し話をし、なぜか地元の中学校の近くを散歩した記憶。
空を飛んだら、とたんに夢から覚めてしまった。

B
空をみると、UFOがいた。
流行の流線型ではなく、なぜか角ばった感じだった。
期待には、アルファベットがいたるところに書かれていたが、読めなかった。
複雑な小さな変形を繰り返していた。

C
高台にある実家の縁側から見えている風景。
200m足らずの山が遠くにみえる。
空は少し緑かかっていたが、とても澄み切っていた。
山の上に、大きな松の木が多数見えたが、どれも立ち枯れていた。
その木をよく見ていると、見たことも無い、おぞましくでこぼことした
巨大な木が多数生えていた。大きなものは、150mくらいあったと思う。
明晰夢状態だったので、少し意識を覚醒側にずらして、離脱を試みてみた。
起きたら、横を向いた状態であり、最後の夢で覚醒度も高すぎた状態で
あったことがおそらく影響し、あえなく失敗した。

@〜Bの順序はあいまい。

今日はよく夢を見ることができた。
早めに寝たのが良かったのかもしれない。


原発関連のニュース。
今日の朝刊から
新潟県知事が、官房長官が地元の同意は必ずしも必要ではなく、法律で
同意が義務付けられてはいないと発言したことを受けて。

「地元の同意なしに稼動させるようなことは絶対にさせない。」
県などが東電と結んでいる安全協定を盾に地元自治体の同意を確約させる考えを示した。

「万が一、地元の同意なしに稼動させるような動きになれば、
安全協定を基に、新潟では絶対に同意を取ってもらうように措置を要求する。」
と明言した。

県内関係市の動向

刈場村長
 国の責任。国は住民の気持ちを尊重してもらいたい。
新潟市長
 国の発言は乱暴そもそも地元の同意とは何を示すのか
柏崎市長
 国の発言が定まらないので、その都度のコメントは差し控えたい。
 (知事の発言を受けて)必要があれば、 県と協議しなければならない。

大飯原発周辺自治体
 京都府知事
 国が基準を示すわけだから、京都府としても安心、安全を守るための筋は
 通す。政府の安全基準の内容について、府の専門家会議で独自に検証する。
 住民が納得できる形で再稼動するのでなければ、本当の意味で理解は得られない。
 
 滋賀県知事
 密室で行われることに不満がある。できた項目は新基準、
 できない項目は先送りして見切り発車しようとしている。枝野は
 各県に説明にくるべきだ。

 あおい町長
 住民が納得できる安全基準と、それに伴う安全対策を早急に示してほしい。
 
 福井県知事
 地元として再稼動への協力は惜しまない。
 いろいろな表現をすると、話が複雑になって誤解を生む。
 福井県と政府はあうんの呼吸で手続きを進めている。

 橋下徹大阪市長
「今回は本当に危ないですよ、こんな形で再稼働が行われたら。
あの暫定的な安全基準では、とてもじゃないけど納得できない。
きのうのきょうで暫定的な安全基準なんて作れるわけがない」


較べるまでなく、新潟県知事がいかに具体的・的確にモノを言っているか分かるだろう。
どのような政治家が(住民を守るという面で)優秀かは、その発言をみればよく分かる。
ただ、文句を垂れ流すだけでは何もできない。本当の政治家を見極めることがこれより
真に必要とされることだろう。

ダウーン

人に共感するって難しいですね。
自分がうたれ強いから、それくらい耐えろよと思ってしまうのかも。
たまにきついことを言ってやるのが正解なのだろうけど、
あまりに過剰反応されると、こちらも困ってしまう。
まあ、私は海よりも広い心を持つ男。
多少、俗物っぷりを晒した方が、喜ばれるのはおそらく真実。
ただ、反省も然り。優しさの不足はいなめない。
どうにかしなければと思う今日。
とまどいこそ感じるべきか今の今。

と、愚にもつかない独り言。愚さんの句。

夢はみなかった。

今日の夢 ガレキ 絆 老子

今日の夢

体育館に学生時代の知り合いがいた。
きれいな女性だったが、今も綺麗だった。
後ろに何やら対談講演のポスターが載っていた。有名人みたいだ。

とりあえず、廊下に出てみて、トイレなどにいった。
そのあと、なにごともなくおきてしまった。

今日のニュース

震災ガレキの受け入れを新潟県内の5市が受け入れを表明している。
新潟県知事は積極的でなかったことから、動向が騒がれていた。
今回、知事は、県を介さない受け入れについて、「とめようが無い」
と答え、事実上、容認するとの報道であった。
知事は、一方、ガレキは被災地だけで処理できるという認識を語った。
阪神大震災のときは2千万トンのガレキに対して、今回は2300万トンという。
あまり変わらないのに、広域処理するを意味がないとの考えだという。
「がれきは仮置き場に山積みになっているが、片付いている。復興の妨げになっていない。」
と語ったという。
また、知事は、検討すべき課題として、次の3点を挙げた。
@焼却時や埋め立て時に発生する排水に混じる放射性物質をどうするか。
A基準値を超える灰が出た場合にはどうするか。
Bセシウム以外の放射性物質は検査しなくてよいのか。

受け入れを表明している県内5市は、引き続き知事に理解を求め続ける意向のようだ。


知事の見識は素晴らしい。トップとして自分でものを考えられる人物だと思う。
本当に県民のことを考えて、意見を持っていることが分かる。
具体的な検討の課題を挙げているのと同時に、議論が先鋭化する前に、
国の8000ベクレルの基準に疑問を投げかけ、100ベクレルを提唱し、けん制した。
5市も、この100ベクレルにのっかって受け入れを表明した。

一見、受け入れを容認しない知事の行動は、昨今の偽善に満ちた「絆」なんたら
に反しているようにみえるが、震災当時、他県に先駆けて南相馬市と電話会談し、
「被災民全てを受け入れる用意がある」と応えたのは知事本人だ。

受け入れを表明した5市はどうか。
すべて、平成の合併で太った市だ。ガレキの灰の最終処分場は、吸収合併した
元町村地帯にするつもりだ。また、知事が挙げたような具体的な検討もせずに
引く事のできない受け入れを、住民の同意なしで勝手に表明したことにも大いに問題がある。
全国市長会の会長である長岡市長を始め、ポーズとして受け入れを表明せざるをえなかった
事情はあるとしても、それは県民にはまったくをもって関係がないことである。

そして、何よりも許せないのは、知事は、市が勝手にガレキを受け入れるのは
構わないと言っているのに、受け入れ量の配分など県が担うべきだと強弁し、
知事のお墨付きを得るまではと、引き続き知事に再考を迫っているところだ。

住民の安全を真に考えなければならないのは、その住民がいる
自治体だろう。それができないで、責任をとらせるつもりで、知事を巻き込むのは
まったくのお門違いだ。私は、今済んでいる場所近くで灰の処分場ができれば、
有無を言わさず引っ越すだろう。
吸収合併された町村は、今後、灰の受け入れを迫られるだろう。
合併時の立場の問題から、反対はし辛いだろうし、偽善的な「絆」なんたらの
影響で、住民は難しい判断を迫られるだろう。
これでは、関東の都市住民の電力需要のため、危険な原発を、福島や新潟に
押し付けた、昔の国と自治体の関係となんらかわりが無い。
また、悲劇の連鎖が生まれるだろう。

マスコミは、関東の都市住民をはじめ、中央よりの意見の発表しかしない。
その圧倒的な情報発信力で、すべてを東電の責任にすり替え、ガレキの問題を全国に回すことで、
責任を希薄化させようとしている。「絆」という偽善の名の下に。

ここであえていいたい。
放射能の不拡散という意味では間違っているだろうが、
まっさきに、受け入れを表明すべきなのは、関東の都市住民ではないか。
「絆」うんぬんの偽善はまったくもって信用していないが、その理論からすればだ。
それが、原発の事故の危険性をおしつけた責任の取り方というものではないか。
(過去に交付金を既に与えているという理屈は通らない。それは、事故前の負担として十分だからだ。
そして、事故後の負担としてはとても足りるものではない。)

ガレキの処理量は、当然ながら平時の人口数に比例する。
関東都市圏3500万人の人口数がもつ、ガレキ処理能力は、
被災3県の人口600万人から較べると、較べるべくもなく圧倒的だ。
被災県からのアクセスを考えても適任だと思う。

同じく関東都市住民から原発を押し付けられた新潟県の住民として、
すでに5市がガレキを受け入れを表明したというのは、心情的には
容認できる。
しかし、最初に、その責任を担うべきものは、応分の負担をしているのか。
はなはだ疑問である。

地方はもっと強くモノをいわなければならない。
いまは新潟県でさえ、新潟県知事の孤軍奮闘の状態だ。
自らの頭で考えることのできるこの方がこの県のトップで本当に良かったと思う。
反対にいうと、トップにはこれだけのことを本来、期待できるということだ。

この国の首相のふがいなさを言っているのではない。
この国の全責任を一個人に押し付けるのは、あまりに大きすぎる責任だからだ。
(一個人のもてる能力として無理があるということだ。無理に権力を発揮させると、
かつてみたナチ国家の暴走をみることになる。)
大きすぎる責任と、それに基づく権利、利権は、分けなければならない。
今は、国の首相は、全容が理解できず、その下にいるものは、まったく
責任を問われずに、言いたい放題、やりたい放題であった。
(その証拠に、この原発の事故の責任追及も首相以外にはされる気配すらないではないか。)

いずれ、この世界は、昔のような世界に戻るだろう。
老子の理想とした、小国が分立し、実際的な政治運営をし、
その上にいる一般諸国民のあずかり知らないような天子様が治める国。
これが、私がかつて見たヴィジョンだからだ。

春の嵐

今日は何も夢を見なかったです。
疲れていたのかな?
少し腹の調子がおかしいので、今日は水のどか飲みもできないし。
明日も望み薄かもしれません。

外はすごい風。春の嵐というやつでしょうか。
少し暖かい風は、春の脈動を感じさせます。
自然の荒々しさの中に、幾分かの優しさを含んでいると思います。

今日の夢 私の存在証明

気付いたら降りて歩いていた。
そして車の心配をした。
戻ってみると、車は壊れ、張り紙がされていた。

A
週刊誌をコンビニで読んでいた。
ホテルで週刊誌を読んでいた。
お金を払わずに持ってきたのかと思い、
またコンビニに行って返しにいった。
週刊誌を取り出すと、本屋の袋に入っていた。
買ったものと判断した。

どちらも、夢の話だが、共通しているのは
意識レベルの低い夢では何でもあり、まったく整合性がとれていない
ということである。心配したら、心配したとおりになる。
心配して対策をとろうとしたら、問題自体が無くなる方向で
(いわばなんでもありのやり方で)問題が解決される。

夢とはこういうものなのだろう。
しかも、きまって起きる寸前には、意識的に解決を図ろうとして
論理破綻したときに起きてしまうことが常だ。

この意味をずっと考えているのだが、ようとして分からない。
意識レベルが低いときには、おそらく、人の無意識化そして
人の共通意識の中にあるのだと思う。思うに流れの中にいる状態だと思う。
そのため、自分のやっていることに疑問は生じない。
徐々に、夢から覚め、意識レベルが上がってくると、
自分のしたことを意識し始め、問題点がみつかれば、
意識的に修正しようとする。だが、この意識的な行為は人間個人の
能力の範囲を出ないことから、能力が限定され、その行動が
破綻を加速し、結局、夢の世界が崩壊する。

自らの行為に気付くというこの行為は、アダムが間接的にでも
ヘビにそそのかされて、禁断の実を味わったことに似ていると思う。
彼は、神に禁止されたその実を食うことで、目が開き、
自分が裸でいることに気付く。そして、その神の目から見て
その完全性を失った(流れから打ち離された)アダムは、
エデンを追われた。

自らの行為を知ることで、人は自らの位置を知り、高みと低きをしり、
そのどちらかに向かうという意識を得ることが出来る。
しかし、人の浅はかな能力では、全てが空回りし、うまくいくことは無い。

人の限られた能力では、大多数の人間で構成された、共通意識にその
能力で勝つことは不可能である。
しかし、その共通意識から離れなければ、高みすら目指せない。
完全な自己矛盾である。いったいどうしろというのか。
あがけばあがくほど、人は罪を重ね、泥の深みにはまっていく。

この泥の海から這い上がるためにはどうすればいいのか。
泥を意識せず、その泥が現実ではないと観ずるのか。本当にそれだけでいいのか。
果たして、個人が神のような完全な能力を発揮し、自ら泥から浮かび上がるのか。
後者はまず不可能であろう。
ではどうするか。だれかに助けてもらうしかあるまい。
泥の上から出ているものに、助けてもらうのだ。
これが直感的にでも人には分かっているから、宗教というものがあると自分は考える。
今の現代人は、大多数がこの宗教が科学やなんらかの権威に置き換わっているだけだ。
要は人は誰かに依存せねば、永遠にその身をたすけることができないとわかっているのだ。

しかし、悲しむべきは人は、その能力の乏しさから、自分が誰を助けているものが、
何物かを分かることはできないということだ。
そのため、自分が助けられているという実感さえあれば、自分が本当は
地獄に連れて行かれていると考えることができても、その可能性を意識的に閉じ、
考えることをやめ、より自分の身を助ける安易な道を選ぶ。

このような世の中の現実で、人は何を指針にし、生きていくべきなのだろうか。
自分なりの結論はというと、自分が何処に連れらされるか分からないにしても、
それを人の責任にせず、自分を信じて、自分が正しいと思う行為を取るしかないのだ。そう思う。
自分の選択こそ正しい。この直感は、宗教的には、神の分霊や、〜チャクラとか、
内在するキリストとか、仏性とか、なんとでもいい方はあろう。
ただ、排他的に、人間が、あらゆる可能性を吟味し、とることができる道は、
本当のことを言うと、この道しかないのだと自分は思う。
そして、この道を自ら試し、自らその道によって、確信を受けることが、
それしか取るべき道の無かった卑小なる自分を助けてくれた何者かの存在を確信させる。
これが、私なりの神の存在証明だ。私は、何物も必要なかった。
自分だけがあればよかった。自分だけの言うことだけを聞けばよかった。
そして、たったそれだけを用意してくれた、何物かについて永遠の感謝を捧げ続けるだろう。
私に残されたのは、様々な災厄が存在する中で、最後に残された希望。
これを信じ続けることが、我が分霊の道。我が道。そして人に残された
人のとりうる唯一つの道だと思う。そういう意味で、私個人と人の全ては一つなのだ。

流れに身を置き、自分が違和感を感じたら、それはある兆しだと私は思う。
その違和感を突き詰めることで、自分を別の流れに乗せることが出来たら、
様々な流れを感じることができたら、そしてその流れに乗ることも、
移り行くこともできたら、それが本当の自由だと私は思う。
そのとき、泥の海は、水が流れる清浄な海となるであろう。

方法

幽体離脱まとめサイトで、
アンケートというところをみてみた。

やっている人が多いのが、「うつらうつら法」。
目を開けながら寝るらしい。
今夜試してみよう。

あと、「夢日記法」これはみたことが無かったが、
もう実践しているぽい。
夢と覚醒のはざまを観察するのが要点らしい。
夢日記をつけると、自然と意識してしまうことだ。
明晰夢から離脱につながる方法はこの方法が該当するのだろう。

夢日記の有用性をさらに確信したので今後も続けていこうと思う。

今日の夢

今日の夢
@
雪のトンネルで男が天井をつっついている。
危ないと警告するがやめない。子どもも2人いた。
落盤の兆候があったので、安全そうなところに子ども二人を連れて
避難。落盤。天井のわずかなすきまをはってこどもと脱出。
その後、街を散策。あまり覚えていない。

A2Dの夢。上からキャラクターが動くのを見ている。

B駐車場でスケボーをしている人たちを注意。
けっこう感情的になってしまった。
その後、いっぱい飛んで遊んだ。


やっぱり飛ぶのは楽しい。
枕元にメモ帳を忍ばせているんだけど、なかなか書けない。
書けたらもっと覚えているんだろうけど。

久しぶりにシリアスに

今日の新聞で越智先生という新潟の教授の話が載っていた。
原発問題に関する各論だ。
考えることがあったので、少し長めに考えてみる。

「想定外」「原子力ムラ」という二つの用語について

自分も気になっていたワードだ。なんというか考えさせられる。
これから先、おそらく60年は考えさせられるワードだと思う。
今の、震災、原発問題は、レベル的に「戦後」これと同じレベルのものだと思っている。
引用は、本来なら、全文を載せるべきだが、紙媒体(新聞)なので面倒。よって要点のみ。

「想定外」について
今回の地震で主に、想定外の震度、想定外の高さの津波などの言い方がされていた。
ここで先生は、問題の本質は原発の事故そのものが想定外であったことを言っていた。
教授連中は分かっていたはずである。だが、世界の原子力開発、政府、官僚、
原発メーカー、電力会社と一体となって行動するうちに、科学者としてあるまじき
愚行、つまり、原発事故に対する思考停止、聖域化を行ってしまったと書いていた。

「原子力ムラ」について
最近、事故調による報告書なるものが報道された。
いわゆる原子力ムラに対して批判したものと捉われている。
ここで、先生が問題にしていたのは、この報告書に個人名が
誰一人出ていないということだ。個人が特定できるものは管首相のみだという。
原発誘致の歴代政治家、官僚など誰一人名前が無いという。

以下は、私の考えだ。
責任とはなんだろうか。社会の組織では役職に伴って責任を負うとされている。
責任とは例えば、クビになったり、あるいは刑事罰に問われるということだ。
(昔は腹切りなどがあった。たかがこれくらいということだ。)
この本質は、個人に責任を負わせ、いわば見せしめにすることで、次の人間に対して、
抑止力を発揮させようということである。

責任を問われないということは、今後に生かされないということだ。
原発事故の本質。それは、科学万能主義に裏打ちされて、ある事実が正しいとされれば、
それがたとえそのとき実際には不確実だとしても、その時点では正しいことであり、
その決定に基づいて官僚機構が施策を作り、その施策で後日、被害が起きようと、
官僚機構は誰一人として責任を負わないということだ。
そして、科学に基づいて決定を下した科学者連中も、そのときのデータでは
正しいとされた判断だったとでも言えば(つまりこれが想定外ということである!)
責任は問われないのだ。

このようにして、誰一人責任を負わないことが実際にまかり通ることになる。

だが、この決定機構に対して前提とされることがある。
それは、科学に対して、政治が関与しないことである。
これを違った者には、現状でも、罪に問うことはできるのである。

次に神の世界から考えるとどうか考えたい。
責任とは。神の世界にも責任はある。
なぜなら、現実の世界の概念はその上部の世界にも似たりよったりで
存在するからだ。そして責任という概念が存在しない、あるいは看破されている世界もある。
責任という概念の本質は、自らの行為に対してその結果を受領するということである。
つまり、カルマということだ。
仏ゴーダマ・シッダルタは、仏の世界にもカルマは存在すると言った。
それだけ普遍的な概念ということだろう。しかし、この意味には深慮を要する。
カルマとはその原因と結果を観察する観察者がいる場合にのみ意味を持つ。
永遠に流転する世界事象そのものになり切った、そのものは、自らを観察することはない。
彼にとって、カルマとは何物もを意味しない。彼を観察するものがいたとすれば、
その観察者にとってカルマは存在するだろうが、彼にはその被観察はまったくもって関係がないのである。
量子力学的検知からいえば、観察者が観察することによって、彼は変わることもあるだろう。
そのことによって、愉悦を感じるとすれば、浅はかなことではないか。
なぜならば、変わった彼は流れに身を置いている限り、何物にも変わってはいないのである。
彼は永遠の一者である。
これが、仏道にいう解脱者が神に優越するという理由である。

しかし、忘れてはならないことがある。これを忘れると、
ニヒリズムに囚われる。現実は現に存在する。彼がおり、私がいるからである。
彼岸があり此岸があるということだ。
私が消えないかぎり、彼がおり、彼が消えないかぎり、私は消えない。
どちらとも存在するならば、その現実を考えなければならない。
神の階段はあり、神と諸生は存在する。

二つの視点がある。この折り合いが私の今の問題だ。
階段をいくら登っても登りつくせず、降りても降りつくせず、
いくら進んでも終わりは無く、いくら後退しても始まりは無い。
この世界を脱するための仏道に、現に存在する矛盾に満ちた世界。
これを解決する世界の仕組みに、四劫がある。
しかし、これだけでは説明が尽くされてはいないのだ。
劫の後に残るものがヒントであるように思うが、本当にそれだけなのだろうか。
その先を私は知りたいと思っている。

人間万事塞翁が馬という。
「想定外」の矛盾の行き着く先であるだろう。
「原子力ムラ」はつまり、観察を排し、成りきる我ということだ。
世間の物事で、問題になっていることには、突き詰めると、
全てこれに行き着く。
仏ゴーダマ・シッダルタは人生は苦しみであると語ったという。
この苦しみに満ちた汚濁した現実には、かくも秘密がある。
それは、上の世界からみてもあるいは秘密なのであろう。
全ては滅ぼされる運命であるというのに、知ったふりをする。
儚いではないか。

今日は、子どもと水族館に行ってきた。

1489
画像は、なんとなく。観察されるものと観察するもの。
果たして観察しているのはどちらなんだろう?と思わせる写真。

久しぶりに、九州ラーメンを食べてきた。
ニンニクたっぷり。一年に二回くらいは食べたい味。

夢はみなかった。今日はどうかな。やる気の問題かな。

最後に、終わった話だと捉えていると思われるとイヤなので。

3号機から煙smoke rises10:29&12:47 2012-03-29(TBS/JNN/福島第一原発ライブカメラ)

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=tcXRM8x7PhY


何も終わっていないと思う。
冷温停止?ヘラクレイトスではないが、
万物は流転し、いまだ燃え盛っている炎なのです。
だから、見えているものも変る。
この瞬間にも。


追記
会津きい子 という人物がいる。
気になったので、これからも意にとめておきたい。

やっと週末

やっと週末!明日は水族館に行ってきます。
今日はネト充します。でも、眠い・・・

今日の夢。
子どもと水辺で遊んだ。
でも、その後、どうも子どもをほっぽり出してどこかに走っていた。

夢の中で明晰夢ではないと、子どもが現れても、
ストーリー上のことがすんだら、ほっとかれていると思うんです。
ほっとかれている子どもも、離脱状態、明晰状態なら、
ある程度、自我があると思うので、これはこれで結構、残酷な
状態だと思うわけで。それを平気でやってしまっている、
通常の夢の精神状態も、有る意味、稚拙というか罪作りな
状態であると思う。
まあ、普通の人にはなんのこっちゃか分からんかもしれませんが。
たとえ夢の中の状態でも、人間としてあるべき態度をとりたいと思います。

以上。

お休み

今日は夢を見ませんでした。
また明日〜

最近、テレビやニュースの東電バッシングがひどすぎて
気持ち悪くなってくる。東電だけにおっつけられる責任ではないのに。
人間社会は本当にダメだね。