わが子の夢の話

わが子の夢の話
最近、夜遅く寝床につくときまってわが子がうなされているのに気付いていた。そんななか、自分はたまの余興と良い夢を見ることを願い、床に就いた。

夢に入り、気付くと、部屋の座椅子に座っていた。そして最近、やっと這うようになったもうすぐ生まれて8ヶ月になるわが子がすくすくと歩いてこっちに来た。歩くはずがないものが歩いているのでこれは怪異の類だなと思い、逃がさぬようきつく抱きかかえ本物のわが子を探しに別の部屋に向かった。(もう1人が見つかれば少なくともうち1人が偽者だからである。)そこにはあと2人のわが子がいた。怪訝そうにみていると、うち1人がみるみる大きくなり目は異常じみた様相を呈した。わが子を装われた怒りで気持ちは大きく昂ぶり、自分は1人を抱きかかえながらその一方を首をつかみ、きつく締め上げた。その怪異の顔は苦痛にゆがみ、みるみるうちに小さくなり、犬歯をむき出しにした毛のない小動物のような醜悪な顔となった。そこで目が覚めた。

さてなぜこの怪異はわが子を装ったのか。歩いて見せ、みるみる大きくなればわが子の成長に喜ぶとでも思ったのか。その稚拙さからみて、もし、怪異としてもかなり低級の部類だろう。

江戸時代の書物である平田篤胤の仙境異聞には、仙人に連れて行かれた子どもの話があり、「豆つま」という怪異の話が出てくる。お産の時の穢れから生まれ、子どもだけにみえ、驚かす怪異である。また、西洋に夢魔というものがいる。夢に現れ、人を悩ますものである。

ただの夢であるともいえるだろう。夢に出てきたものは怪異であり、自分を楽しませようとこのような夢を見せたとも思える。(そして、そう願ったのは自分である。)あと1人のわが子は本物のわが子であれば、わが子を助けたともいえるだろう。(しかし、全てわが子にみえたものが怪異である可能性も排除できない。)

わが子はこの悪夢のあと、数時間はうなされていた。この夢魔は自分を楽しませるのと同時に、わが子を悪夢にさいなんだということであれば、面白いことだ。そして、この現象からは、本来、見る楽しい夢とはこのような魔の類が見せるものなのかという疑問が浮かぶ。(そうであるならばそもそも夢とは何なのか。)

朝起きてみると、わが子はとても機嫌がよく、自分に対してはじけんばかりの笑顔を見せてくれたのだが。

そして、通勤途中にこの夢について考えたあと、帰宅の時にもそのことについてよく考えた。仕事から帰ってわが子を風呂に入れてみると、ふと、この子が本物かどうかを疑ってしまった。悪い思いに駆られ首を絞める真似事をするとわが子はものすごい勢いで泣き出した。(首を絞めるという行為をされたことがないはずなのに。)

そのとき、なぜ怪異とは思えど、夢の中とは言えど、わが子の顔をしたそのものを殺さぬよう手加減はしたとはいえ、手にかけようとしたのか、とひどく後悔の念に駆られた。

恐ろしくもあった。(とある文献で魔が受胎し、修行者の子として生まれ修行の邪魔をすると知っていたのだから。)(そして自分はさぼり勝ちではあるとはいえ、修行中の身である。)

何物も定かなものはない。目に見えぬものとはそういうものだ。しかし、偶然にしては出来すぎているから信ずるに値するものでもある。

くだんの悪夢を見た後、実は別にもう一つ夢をみた。王族の息子と母に見えるものに自分がなり、何者かの襲撃に遭った中で大急ぎで身支度を整えていた。その中でその夢の人物にとってはその部屋はよく分かっているはずなのに自分は分からず、当然ながらあせることになった。ここで気付くことがあった。普段の明晰夢の経験から、自分が夢で体験するそのときの人物は、単にそのときの役割を自分の自由意志で行うだけであり、その人物にはその夢の時点の前からそれ独自の社会背景を持ち、生活しているように見えることに気付いていた。そして、その社会背景を元にした行動の範型とみえるものを自分の自由意志が大きく逸脱すると、その夢から覚めてしまう(追い出されてしまう)ことに気付いた。

ここから考えられることは、自分は夢で他の人物に乗り移り行動しているだけなのではないかということだ。(明晰夢の状態になければ、この状態には気づかず、当然にこの人物に為りきり行動してしまう。)(つまりは、この夢の中において自分と夢の人物にさしたる境界は無い。いわば荘子の胡蝶の夢である。)(明晰夢の状態にあるときにのみ、自分ともう1人の夢中の人物の個の違いが黙示的にではあるが浮き立つことになる。)

話が飛んだが、考えられることはこうだ。わが子は、どういういきさつかは分からないが、夢で魔となり、自分をたぶらかせた。(否、この自分を稚拙な手であろうが、楽しませようと思ったのかもしれない。)同時にいえることは、魔と人間とはそのように曖昧な差をしか持ち得ないということだ。(人間は夢で平気で人を殺せたりすることはこういうことなのかもしれない。)人の世の輪廻転生は神・人・畜生・修羅・餓鬼・地獄の間を転廻するが、魔も例外ではないのかもしれない。

そういうことを今日の夢から考えることができた。興を得るという当初の自分の願いは達することはできたとともに、その功罪もまた際立ったのだが。

○追記
「胡蝶の夢」もそうですが、中島敦の「山月記」も似ている話ですね。
wikiによると、唐朝時代の「人虎伝」なるものが元になっているらしいです。
いやぁー。仙道ですねー。(まあ、私のは少し違いますが。)

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