今日の夢 私の存在証明

気付いたら降りて歩いていた。
そして車の心配をした。
戻ってみると、車は壊れ、張り紙がされていた。

A
週刊誌をコンビニで読んでいた。
ホテルで週刊誌を読んでいた。
お金を払わずに持ってきたのかと思い、
またコンビニに行って返しにいった。
週刊誌を取り出すと、本屋の袋に入っていた。
買ったものと判断した。

どちらも、夢の話だが、共通しているのは
意識レベルの低い夢では何でもあり、まったく整合性がとれていない
ということである。心配したら、心配したとおりになる。
心配して対策をとろうとしたら、問題自体が無くなる方向で
(いわばなんでもありのやり方で)問題が解決される。

夢とはこういうものなのだろう。
しかも、きまって起きる寸前には、意識的に解決を図ろうとして
論理破綻したときに起きてしまうことが常だ。

この意味をずっと考えているのだが、ようとして分からない。
意識レベルが低いときには、おそらく、人の無意識化そして
人の共通意識の中にあるのだと思う。思うに流れの中にいる状態だと思う。
そのため、自分のやっていることに疑問は生じない。
徐々に、夢から覚め、意識レベルが上がってくると、
自分のしたことを意識し始め、問題点がみつかれば、
意識的に修正しようとする。だが、この意識的な行為は人間個人の
能力の範囲を出ないことから、能力が限定され、その行動が
破綻を加速し、結局、夢の世界が崩壊する。

自らの行為に気付くというこの行為は、アダムが間接的にでも
ヘビにそそのかされて、禁断の実を味わったことに似ていると思う。
彼は、神に禁止されたその実を食うことで、目が開き、
自分が裸でいることに気付く。そして、その神の目から見て
その完全性を失った(流れから打ち離された)アダムは、
エデンを追われた。

自らの行為を知ることで、人は自らの位置を知り、高みと低きをしり、
そのどちらかに向かうという意識を得ることが出来る。
しかし、人の浅はかな能力では、全てが空回りし、うまくいくことは無い。

人の限られた能力では、大多数の人間で構成された、共通意識にその
能力で勝つことは不可能である。
しかし、その共通意識から離れなければ、高みすら目指せない。
完全な自己矛盾である。いったいどうしろというのか。
あがけばあがくほど、人は罪を重ね、泥の深みにはまっていく。

この泥の海から這い上がるためにはどうすればいいのか。
泥を意識せず、その泥が現実ではないと観ずるのか。本当にそれだけでいいのか。
果たして、個人が神のような完全な能力を発揮し、自ら泥から浮かび上がるのか。
後者はまず不可能であろう。
ではどうするか。だれかに助けてもらうしかあるまい。
泥の上から出ているものに、助けてもらうのだ。
これが直感的にでも人には分かっているから、宗教というものがあると自分は考える。
今の現代人は、大多数がこの宗教が科学やなんらかの権威に置き換わっているだけだ。
要は人は誰かに依存せねば、永遠にその身をたすけることができないとわかっているのだ。

しかし、悲しむべきは人は、その能力の乏しさから、自分が誰を助けているものが、
何物かを分かることはできないということだ。
そのため、自分が助けられているという実感さえあれば、自分が本当は
地獄に連れて行かれていると考えることができても、その可能性を意識的に閉じ、
考えることをやめ、より自分の身を助ける安易な道を選ぶ。

このような世の中の現実で、人は何を指針にし、生きていくべきなのだろうか。
自分なりの結論はというと、自分が何処に連れらされるか分からないにしても、
それを人の責任にせず、自分を信じて、自分が正しいと思う行為を取るしかないのだ。そう思う。
自分の選択こそ正しい。この直感は、宗教的には、神の分霊や、〜チャクラとか、
内在するキリストとか、仏性とか、なんとでもいい方はあろう。
ただ、排他的に、人間が、あらゆる可能性を吟味し、とることができる道は、
本当のことを言うと、この道しかないのだと自分は思う。
そして、この道を自ら試し、自らその道によって、確信を受けることが、
それしか取るべき道の無かった卑小なる自分を助けてくれた何者かの存在を確信させる。
これが、私なりの神の存在証明だ。私は、何物も必要なかった。
自分だけがあればよかった。自分だけの言うことだけを聞けばよかった。
そして、たったそれだけを用意してくれた、何物かについて永遠の感謝を捧げ続けるだろう。
私に残されたのは、様々な災厄が存在する中で、最後に残された希望。
これを信じ続けることが、我が分霊の道。我が道。そして人に残された
人のとりうる唯一つの道だと思う。そういう意味で、私個人と人の全ては一つなのだ。

流れに身を置き、自分が違和感を感じたら、それはある兆しだと私は思う。
その違和感を突き詰めることで、自分を別の流れに乗せることが出来たら、
様々な流れを感じることができたら、そしてその流れに乗ることも、
移り行くこともできたら、それが本当の自由だと私は思う。
そのとき、泥の海は、水が流れる清浄な海となるであろう。

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