藤の花に祝福あれ

うーっす。
もうすぐ残業が増えます。3日くらいですが。
会議なので気が重いです。まあ、しょうがありません。

昨日は離脱の兆候はありませんでした。
少し、耳鳴りがした記憶がうっすらとありますけど。

もうすぐ、藤の花が咲きます。新潟にも藤棚が有名なところがあります。
樹齢100年以上との事です。
藤の花は見る時期が重要です。
終わりかけにいくと、花がポツポツと落ちていきます。
藤棚と下からベンチなどに据わり、この光景を見ると、
まるで桃源郷にいるような気分にさせてくれます。

私も一度だけ見る幸運に恵まれました。天気の良い日。
青空の下、藤棚のわずかな隙間を通り抜けた光線が、
池に反射し、キラキラと光っていました。
その中で、藤棚にクマ蜂が飛び回り、陽気な羽音をたてておりました。
花が一つ一つ視線の中にいくつも同時に次々と落ちておりました。

花は散り際が美しいといいます。
ふと、桃源郷の花は散るのだろうかと考えてしまいます。
始終散っては咲きを繰り返すのでしょうか。
地面が花でいっぱいになってしまいそうです。
なんとなくですが散らないような気がします。
散った後の花は変色し、枯れ土に戻ります。
どうも桃源郷にはふさわしくないような気がするからですす。

また、花は散らないと実になりません。
実にならない花に意味はあるのでしょうか。
そうも考えてしまいます。

美しいものだけを切り取り、永続性を求める。
この行為には、不完全さの投影だと私は思います。
どちらも不完全なのです。

不完全の中の一瞬の完璧さ。これこそが美しさではないでしょうか。
人間が死に、生まれ、そして死ぬ。その意味はこの中にヒントが
あるような気がします。

楽園の先をこそ、私は求めます。
明晰夢中でかいま見た、楽園の光景を希求はすれど、
偏狂しないのは私はそれが深層の中で分かっているからだと思います。
いまいち、離脱へのモチベーションが上がらないのもこのせいかもしれない、
そう感じます。私は不完全でいて、完璧なのだ。
この認識はおそらく間違っていないでしょう。誰もがそうです。
だからみな、わき道にそれず、その人生を真に生きることができるのだと思います。

だが、わたしはわき道にそれます。その行為の意味も、
なにかあるのだと思います。私のこの行為はおそらく無駄でしょう。
しかし、無駄ではない何かを私は探すのです。漠然とした確信を持って。
そうは言っても、やはりモチベーションが上がらないのは確かです。
困ったものだ。

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