夢の話ととある長考

夢の話

砂漠の荒野を歩いている。その前は忘れた。
荒野に線路がある。途中からトンネルになっていた。
列車が2両衝突する。

新しい方が強く相手を押し返していく。

その後、熊が襲ってくる。巨大な熊だ。
石組みまたはコンクリート製の鳥居のような構造物に
よじ登る。なんとか逃げられたか油断して落とされ食われたかは分からない。

場面が変わる。洪水だ。田んぼの畦を小川のような水が流れる。
それとともに人も大勢流されている。それこそ大勢。災厄から避難しているようにも
見える。
自分は、その流れに逆らい、水の流れと反対側に歩いていく。
畑の中を、荒らしてしまうことを気にしながら畝沿いを歩いていく。
その先には、大きな木組みの仏閣があった。
門のような前にお侍が見える。

場面が変わり、晴れた照りつける太陽の下、畑の中でおじいさんとおばあさんが
農作業をしている。夕方だろうか。それとも午前中だろうか。
太陽が低い位置にある。おじいさんは白いネットの影におり、
多少涼しそうだ。おばあさんは、頭に手ぬぐいを巻いている。
少し暑くないか気になる。
良く晴れたとても良い日であった。



昨日の悲鳴伝の感想の続き

組織について。いや、ヤバイ組織のことではなくて社会活動一般のことです。
善の理念を持ち、活動する団体が法人として、その正確を帯びて、
その構成員が交代しても、活動し続ける場合、なぜその団体の活動は、
少なからず悪の性質を帯びるのか。

自分も社会で働くものとして、考えさせられます。
まあ、お金という対価をもらうことによって、多少の踏ん切りというか、
妥協が成立するわけです。悪を行うことについて。
悪という定義づけも人によって変化します。
だから、ある人にとっては悪であっても、ある人にとってはそうではないということも
ありえます。
一般に、企業活動など(どこの団体でもそうだと思うのですが)自分の活動を
無理やり正当化します。悪だと認めて活動をするなど、子ども向けのコンテンツでしか
ありえないでしょう。(ただ自分で悪の組織といっていることは希でしょうが。)
その構成員にとっても、自分の属する団体の活動は、たぶん精神衛生上の
問題だと思うのですが、正当化する傾向があると思います。

問題は、その構成員がその団体の帯びる性質というか価値観と違うそれを
もってその行動をつぶさに観察すると、正しくない行動を自分が行っている
と感じることがあることです。

こういう場合、自分がその団体の活動を自分の価値観によって改めようと
すると、たいていは抵抗にあいます。その団体の今まで続けてきた文化というか
一貫性に反するからです。ただ、実際にその間違った活動で、
実害が出ているのであれば、直さなければその団体に結局は害が及びます。

であるからして、それに対抗する措置として、いくつか仕組みがあると思う。
仕事に責任を持たせ、その責任に応じて給料を余計に払い、
個人に敬意を払うこともその一つです。
責任が増すほどに、間違った活動で生じる害に責任を負います。
つまり、下手をすると、職を失ったり、名誉を失ったりします。
よって、その害を取り除くモチベーションが生まれる。

もう一つの仕組みは、法律や企業の決まりごと。
善を行うようあらかじめ規制することで、道を外れることを阻止する仕組みです。

ゆえに超法規的団体については、際限なく悪に陥る危険性があります。
本作の地球撲滅軍もその一つでしょう。

最初に挙げた仕組みはあくまでその団体が受けうる害について阻止する
仕組みなので、周囲が受ける害は考慮する必要がないというのもポイントだと思います。

ぐだぐだ考察しましたが、自分のやっている活動が間違っていると分かったうえで、
給料をもらうために働くことは苦痛です。
この忍ぶという行為によって、自分が磨かれれば、それはそれでいいことだと思います。
しかし、社会には害であることには変わりません。
このへんの悲哀と矛盾が、この本には多く語られていると思います。

目にに見えない、徳などの概念を考えないで、周囲に害を撒き散らす自分を
容認すること。そのためには、感情を殺すしかないと思います。
そうやって、どれだけ多くの大人が、無感動・無表情・冷酷になっているかは
想像するだけで恐ろしい。活動そのものが善であると信じなければ、
間違った行動などありえないと思うことが出来なければ、
人は、人の営みそのものが悪だと感じるに至るでしょう。

はたしてそれは正しいのか?それとも、全ては善なのか?
一つだけ確かなことは、自分の行動と人の行動全てが善だと知るためには、また
自分の行動が悪だと知らなければならないという、一見、矛盾した理解が必要だということです。
いや、自分だけが正しいと考える狂信者は多いというかもしれません。
ただし、これは違う。なぜなら、その狂信者は自分以外の相反する者の行動は悪だと理解するからです。
決して、人の営み全てが悪だと感じることはない。自分(だけ)が正しいと感じることにおいて。

この人の営みに全てに絶望し、全てを悪だと感じなければ、
全ての者の行動が善だと感じることはないのです。
正に善と悪とは表裏一体であると思います。

その認識の逆転がなされるのは、人の営みに善をみつけたときであると思います。
一部が、善であり、一部が悪であることはありえない。この理解に達することによって、
この偉大なる価値の逆転が為される。
そう思います。

これこそが救済、赦しではないでしょうか。
自分はそう思います。
この認識によって、全てのものは救われるでしょう。
ただそのために、人の世が救われることはありえない。そうも感じます。
あくまで救われるのは自分。その理解に達した自分。
悪に満ちたがこの世であるからこそ、この理解がある。
そう、この世は何も変わらない。変わるのは自分だけ。ただ、自分が変われば、
それでいいのです。周囲も自分の投影であるのだから。全てはワンネスに回帰します。

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